勉強が好きだった。あれほど目的が明確で、成果の見えやすいものはないからだ。
〇〇大学に合格したい(目的)。そのためには、△△点が必要である(成果)。逆算すると、1日××時間くらい勉強すればよいだろう(やるべきこと)ということがわかる。あとはひたすらその(やるべきこと)をこなせばよい。
目的が決まっていて、やるべきことが決まっていて、成果が数字に表れる。
社会に出ると、勉強が(そして学校や受験というシステムが)いかに明確なものであったかよくわかる。
仕事なんて、目的もわからない、やるべきこともわからない、成果も見えないことばかりだ。
社会は複雑だ。勉強はずっと簡単だ。
真面目な優等生だったわたしは、実は勉強の方で大きくつまずいたことはなかった。
でも、社会に出てからはつまずくどころか、たぶんすっ転んで頭を打ったうえ、坂道を転がり落ちていると思う。
どうにか「あの感じ」を取り戻せないだろうか?
河原でサッカーをする少年たちを見ながら思った。「あの感じ」とは、受験生の時に勉強をしていたあの感じである。中学生の時に部活をしていたあの感じである。やることが明確化されている生活。目的に向かって、ひたすらやるべきことを積み上げる「あの感じ」。
高校3年生の夏休みから、わたしは1日の勉強時間を測るようになった。時間より効率だと言って、量から逃げることをやめたのだ。スタンプカードをつくった。勉強を1時間したら、トトロのスタンプをひとつ押した。夏休みが終わるころには、スタンプカードはいっぱいになった。
そうしないと不安だった。
小さなスケジュール帳に勉強時間を書き込んでいる生徒がいて、えらいねと声をかけたら、彼はちょっと照れ笑いして「不安なんです。自信がなくなった時にはこれを見返すんです」と言っていた。いつかの自分を見ているようだった。
そうだ、スタンプカードだ。
社会の荒波に呑まれ、もみくちゃにされてしわしわになってしまったわたしは、実はいま自分が何をしたいのかも、何をすればいいのかもよくわかっていない。でも、何かはしなければいけないと思う。なんとなく。積み上げた努力は、たぶん何かにはなる。そのことは受験のときに気づいている。ひたむきに努力さえしていれば、思ってもみない大学に受かることだってあるのだ(第一志望とは限らないが)。
だからまずは初心に帰って、量を積むところからはじめてみようと思う。